朝陽堂、120年の歩み


1892-1922:創業期

文明開化のはなやぎとともに京で産声を上げる

日本初の水力発電所、蹴上発電所が送電を開始した明治25年(1892)、朝陽堂印刷の前身である高橋朝陽堂が産声をあげました。文明開化の呼び声とともに、朝陽堂の歴史は始まったのです。初代経営者の名は高橋貞次郎。貞次郎は日本に輸入されて間もない石版印刷を導入、最先端技術を扱う印刷業者の一人として、業界に華々しくデビューしました。 高橋朝陽堂は、布地印刷も手掛け、当時京都で一、二を争う木綿問屋とも深いつながりがあったことが、当時の記録から覗えます。 明治40年(1907)、工場の新築に伴って、貞次郎はさらに近代化を推し進め、最新の印刷機械を次々に整備。時代と技術の進歩に敏感な特質を遺憾なく発揮し、高橋朝陽堂の基盤を確固たるものにしていきました。


1923-1951:発展期

2代目久次郎、戦争を乗り切る

1923年、30年余にわたって事業に打ち込んできた貞次郎が病に倒れ、不帰の人となりました。時代はやがて昭和に入り、金融恐慌に続いて不況が全国を覆うという暗雲たれこめる時代となりますが、高橋朝陽堂では2代目久次郎を、大番頭の家木正之助と工場長の森井寅一がしっかりと支え、その屋台骨は小揺るぎもしませんでした。 久次郎は父・貞次郎と同様に設備投資や新技術の導入に積極的で、当時日本で最も技術的に優れていた中島機械株式会社製の、手差し四六半裁のオフセット印刷機を買い入れています。 印刷は美を伝え、感動を伝えるものである。機械は高くても、精度のいいものに限る」美しいものに敏感だった久次郎の言葉です。 昭和12年(1937)、盧溝橋事件が勃発、日中戦争の火ぶたが切って落とされ、やがて第二次世界大戦へと発展していきます。物価は高騰し、印刷業界は未曾有の不況に突入、転廃業者が続出しました。 久次郎は京都の印刷の灯を何としても守ろうと強く決意。一度は廃業の危機に見舞われながらも戦時下を生き抜きます。そして戦後の復興期にはいち早く四六全版機を導入、やがて訪れる高度経済成長の時代に向かって、志もあらたに歩み始めました。


1952-2008:転換期

株式会社として新しい時代への船出

昭和27年(1952)、高橋朝陽堂は朝陽堂印刷株式会社に改められました。事業規模拡大にともなって、個人商店から法人組織へと転換したのです。昭和37年(1962)には久次郎が長男・清二に社長の座を譲り、3代目新社長のもと、朝陽堂は十条の新事務所・工場で事業を展開していくことになりました。 時代は戦後復興から「大量生産・大量消費」の時代へと移行していました。印刷の需要はかつてないほどに拡大し、消費者ニーズに従って印刷業界は新設備・新技術の導入を迫られました。朝陽堂は、この時代の要請に対し打てば響くような積極的な反応を見せ、順調に業績を伸ばしていきました。 高度成長時代は石油ショックによって終わりを告げ、やがて時代は安定成長期、バブル期を経て低成長期へと移り変わっていきます。時代の流れに伴って、朝陽堂は堅実に柔軟にその歩みを進めてゆきました。 昭和60年(1985)には手狭になった事務所・工場を取り壊して新社屋を建設。それに伴い大規模な設備投資を行いました。 大きなスペースを必要とするオフセット輪転機を買い入れたのも、この頃のことです。 また、ハード面だけでなくソフト面も充実させることによって、企画力のある提案型印刷企業となることをめざしました。すなわち制作集団「サンドール」の設立です。「サンドール」はグラフィックデザイナー、カメラマン、コピーライターなどが、それぞれ独立して仕事をするかたわら、朝陽堂から要請があると優先して協力し合うという、ゆるやかな集団で、雑誌や教材、カタログ、和菓子の販促物などに高い制作能力を発揮しました。 そして、朝陽堂が設備投資を終えた頃にやってきたのが、“グーテンベルク以来の大転換”と称されたDTPの登場です。版下・製版から印刷仕上げまでのすべての工程を、コンピュータを使ったデータ処理によって行えるという画期的な技術。 まさに革命的といえる技術革新でしたが、バブル期に畑違いの投資をせず、力を蓄えていた朝陽堂印刷は、このDTPへの対応と転換を滑らかに進めることができました。


2008-これから

次代を担うメディア産業として

平成4年(1992)、朝陽堂は創業100周年を迎えることができました。ひと口に100年と言っても、その間には戦争、オイルショック、バブル景気とその崩壊などの出来事があり、会社としても技術革新、工場の火災、取引先の倒産など、様々な困難を乗り越えての100周年だけに、関係者の感慨もひとしおです。 しかし喜んでばかりはいられません。100年はあくまでも通過点。次なる100年への歴史を紡いでいく者として、経営陣は気持ちを引き締め直しています。 2001年、省庁再編に伴い、印刷業は「通産省生活産業局紙業印刷業課」から、「経済産業省商務情報製作局文化情報関連産業課(通称メディアコンテンツ課)」の監督下へと移行されました。これは、印刷業を製造業ではあるが、メディア産業としての発展が期待されると位置づけたことになります。 折りしもインターネットを通じた宣伝効果の高さが、年々注目度を高めており、印刷業界はなべて、Webコンテンツの製作という新しい分野に進出していこうとしています。 時代の流れをいち早く掴み、消費者ニーズに即した技術投資を続けてきた朝陽堂でも、京都の老舗の印刷会社という特性を活かしたWebコンテンツの製作にいま、取り組み始めました。 「美を伝え、感動を伝える」。2代目久次郎の家業への誇りを胸に刻んで、いま新たなる時代へ、私たちは力強く踏み出していきたいと思います。